行って来ました。越後国一之宮。
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祭神は天香山命(アメノカゴヤマノミコト)で天照大神の曾孫。
(天照大神-天忍穂耳命アメノオシホミミノミコト-天火明命
アメノホアカリノミコト-天香山命)
天香山命の別名は高倉下命(タカクラジノミコト)とも云われ
この名を使っていた頃は、熊野、和歌山県新宮市にある
神倉神社が社であったらしい。
この頃、神倭伊波礼毘古(カムヤマトイワレビコ)、後の神武天皇が
熊野の地で荒振る神の毒気にあたり気絶していたところへ
天照大神と建御雷神(タケミカヅチノカミ)の意をうけ、天下平定の
霊剣、布都御魂(フツノミタマ)を献上し、神倭伊波礼毘古と
その軍勢を救ったと云われてます。
神話の詳細は、以下。
高倉下命は、あるとき夢を見た。天照大御神と高御産巣日神
(タカミムスヒノカミ)から天孫を援助し葦原中国(アシハラノナカツクニ)を
平定せよとの命を受けた建御雷神は自ら降臨する代わりに
高倉下命の倉に穴を空けて、その穴から刀を下し、これを
高倉下命自身が神倭伊波礼毘古に献上するという夢である。
目が覚め、辺りを見渡すと、まさに倉の中に神剣があるでは
ないか。
そこで、夢の通り神倭伊波礼毘古のもとへ神剣を届けた。
すると、荒振る神々の毒気にあたり、気絶して倒れていた
神倭伊波礼毘古と、その全軍はたちまち目を覚ましはじめた。
そして、神倭伊波礼毘古が、その神剣を手に取り、振り
かぶるやいなや荒振る神々は次々に切り伏され
神倭伊波礼毘古は天下を平定することが出来たらしい。
高倉下命はまさに神倭伊波礼毘古とその全軍を救う
救世主となり天下平定の一助を担ったらしい。
ちなみに、この時の刀、布都御魂は七支刀であり
国宝かつ石上神宮の御神体であるそうな。
その後、平定した神倭伊波礼毘古は紀元前660年に
橿原宮で即位し初代神武天皇となった。
その4年後に高倉下命は神武天皇より高志(コシ)の
国造りを命ぜられ現在の寺泊町野積海岸に上陸。
弥彦の地に居を構え、天香山命と呼ばれ越の国の
開拓に尽力した。
以来「伊夜比古さま」「おやひこさま」として慕われて
きたそうな。
と、このような経緯で、現在の弥彦神社は作られたと
思われます。
玉の橋
彌彦神社古記録によると、711年勅命により宮殿が改め
られた境内建造物の中に、御池「玉の橋」が記載されていて
その中で古くから参道中程に神様が渡る橋「御神橋」があり
室町時代の境内古絵図にも描かれているようです。
手摺にしがみつけば渡れそうだけど、信仰上から
石油蒸留釜
なんで、こんなモノが??と感じ調べると。
日本石油開発の神と云う神徳があるらしい。
と云うのも天智天皇の時代に越の国より大津宮に
「燃ゆる水(原油)」が献上されましたとの日本書紀の
記録は、わが国の文献における「石油」の初見らしい。
これが弥彦と石油の起源だろう。
そんな訳で参道に日本に二基しか残っていない
石油蒸留釜があるのも理解できますな。
明治に頃には石油関連の参拝者が途切れなかったの
だろうと想像できますな。
手水舎
二の鳥居
神馬舎
楽舎&舞殿
ここの舞殿は品があって、印象深いモノでした。
それもそのはず、ここは重要無形民俗文化財指定の
舞楽・神歌楽が灯籠神事(毎年7月25日)に奏され、
神歌楽は神武天皇ご即位の大典の際、 弥彦の大神
自らが奉奏したと伝えられる舞・天犬舞(アマイヌノマイ)と
ともに一社伝来の秘舞として継承されてきたらしい。
この秘舞に相応しい舞台と云えるでしょう。
随身門
この写真は気に入ってます。
空の明るさに合わせて撮ったモノをPicasaで明るさ調整
個人的には認識しているモノの、どこで見たか?定かでは
修学旅行などの団体写真を撮る構図のようで
足場などがありました。(左下にその一部が)
主に天香山命の子孫で引き続き越の国造りに尽力した
ここの狛犬は頭と云うか額が特徴的です。
その工事区域にある貳十二所社・八所神社も観れません
でした。。。
飯殿
飯殿(イイドノ)は神様にお供えする神饌(昔はミケとも云い
神様にお供えする「米・酒・餅・魚・海菜・野菜・塩・水」
などの食饌。)を調製する大切な建物。
弥彦神社で年間執り行われる数ある祭典の中、古来より
伝わる重要な神事には「大御膳」という特殊な神饌が
お供えされてるらしい。
大御膳は、神職が4日間にわたりこの飯殿に忌み籠り
古伝のとおり厳重に調製。さらにこの飯殿では、正月の
14日より神職が籠り、16日未明に、御神慮を伺い
その年の農作物の吉凶と天候を占う粥占(かゆうら)
・炭置神事(すみおきしんじ)も執り行われているそうな。
鼓楼
今回写真には収められなかった大鳥居
大鳥居は昭和57年に上越新幹線開通を記念して
建てられ高さ30m。
両部鳥居としては日本一の大きさだそうな。
今の出雲大社は八丈で24mであるコトを考えると
それよりも大きな鳥居と云うコトになる。
余談だが出雲地域では24m以上の建物は不敬と
云うコトで決して建てないそうだ。
そんな中、この大鳥居には何か意図があるのか?
それとも無知故の誤りか?謎ですな。